◆◇◆特集記事◆◇◆

水戸大家さんに物件を売ってもらったらトラブった

(1)序章
(2)再燃
(3)ここまで言っちゃうヨ
(4)フカし契約をスルガ銀行にチクってみた
(5)フカし契約の件を金融庁に報告してみた
(6)収用価格が判明しました!
(7)聞こえちゃったんだよね。思い出したわ。

コインランドリーって、どんなんなん?

◆第1章◆ コインランドリーを選んだ理由と、その入り口
◆第2章◆ 運営に必要なコスト
◆第3章◆ 二通りの方法を検討
◆第4章◆ 仕入れた機器と価格
(coming soon!)◆第5章◆ 機器のメンテナンス
(coming soon!)◆第6章◆ 売上予測と売上推移の傾向
(coming soon!)◆第7章◆ 売上アップのアイデア
(coming soon!)◆第8章◆ コストダウンのアイデア
(coming soon!)◆第9章◆ あぁ~~、完全にアウトだね
(coming soon!)◆第10章◆ コイランドリーに対する私の考え

下水漏出の大惨事!助けてくれー!!

前編:下水漏れ事故、勃発!
中編:問題解決かと思いきや!?
後編:鉄壁の守りを打ち砕く!

インターネット無料化工事


◆1物件目(1)

◆2物件目(1)
◆2物件目(2)
◆2物件目(3)
◆2物件目(4)

◆3物件目(1)
◆3物件目(2)
◆3物件目(3)
◆3物件目(4)

◆4物件目(1)

◆5物件目(1)
◆5物件目(2)
◆5物件目(3)

2012年8月2日木曜日

プロフィール

■■ 現在の活動の概略

■ エル特許事務所:代表弁理士
特許や商標の申請手続きを代行しています。
⇒ http://www.facebook.com/lpatent

■ ウェブサイト「私は、コレで弁理士になった!」:運営者
弁理士試験受験生のサポートを行っています。
⇒ http://benrishiumi.blog87.fc2.com/



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■ これまでの人生を振り返ってみました
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■■ 30分で!?

わたしの誕生日は、
1975年(昭和50年)5月24日(土曜日)です。

出生の正確な時刻について両親に尋ねましたが、
残念ながら覚えていませんでした。

母が朝4時頃に破水してすぐ病院へ行き、
ナント、病院到着後30分で、
すぽんっ!と簡単に生まれたらしいです。

ちなみに、生まれた日は、
よく晴れていたそうです


■■ 出生地と、その土地の印象

富山県高岡市永楽町という町で生まれました。

印象を箇条書きにすると、以下のような感じです。
・田んぼと巨大病院
・田んぼは、やがて住宅街に変わった
・子供がたくさんいたが、いまは高齢者が多い
・“永”遠に“楽”しい“町”
・精神病患者からの声援を受けて野球をする毎日
・博労小学校という小学校の校区で最も大きな町

なんだか、あまりパッとしない印象ですねぇ(^_^;)


■■ 海のような広い心

わたしの名前“洋(うみ)”には、
海のような大きな心を持った人間になって欲しい
という想いが込められているそうです。

なお、当初は“ひろし”と読んでいましたが、
いまは“うみ”と読んでいます。


■■ 小学校時代その1(表の話し)

わたしは、小学校6年生まで、
小学校のバスケットボールチームに所属していました。

幸いにもスタメンでプレーし、
県の大会で優秀選手に選ばれることもありました。

そして、そのチームは、
毎年3月に行われる全国大会で、
『3位』という輝かしい栄冠を勝ち取ることができました。

ところで、わたしは、
小学校5年生から6年生にかけて急激に身長が伸び、
145cmほどのチビ助だったのが、
1年ほどで163cmになりました。

当時、163cmというのは、
小学生にしては背の高いほうでした。

しかも、わたしが所属していたチームには、
173cmのキャプテンと、
165cmの副キャプテンのほか、
160cm以上の生徒が数名いました。

ですから、小学生チームの割に、
大きなチームでした。

富山県内の大会では、
どのチームを見ても、
大きな子が、せいぜい一人いるくらいで、
いずれにしても、
『小さい』
という印象でした。

このように、チームメイトの体格にも恵まれ、
あれよあれよという間に、
全国大会を勝ち進んでしまったのです。

あの頃指導してくださったコーチや、
試合や遠征へ付き添ってくれた両親には、
とても感謝しています。


■■ 小学校時代その2(裏の話し)

小学校時代のわたしには、
思い出すだけでツラくなる、
裏の世界がありました。

念の為、書き記しますが、
ネガティブな内容なので、
読まずに飛ばしたほうが良いかもしれません。


■ ウザい奴

わたしは、小学校4年生の頃、
女の子が大好きで、
女の子とばかり話していました。

これは、自分が女性的だったということではなく、
女子のことが、異性として好きだった、ということです。

単なるエロ小学生です。

ですが、その姿は、
クラスの男子生徒から見ると、
ウザい奴でしかありませんでした。

その結果、約一年間に亘り、
クラスメート数名から、
無視や嫌がらせなど、
精神的なイジメ行為を受けるハメになりました。

制裁的な意味合いが強かったのかもしれません。

わたしは、教室に居るとツラいので、
休み時間は、いつも別の教室へ行っていました。

しかし、悪いことに、
イジメの主犯格の生徒は、
当時わたしが所属していたバスケットボールチームのメンバーだったため、
わたしは、放課後のバスケの練習に参加できなくなりました。

わたしの親は、
わたしが放課後にバスケの練習へ行っていると思っていたので、
わたしは、イジメの事実や、練習への不参加を隠すために、
放課後は自宅の隣りにあった下級生の家へ身を寄せていました。

わたしは、学校をサボることはなく、
とにかく、イジメに耐え続けました。


■ 背の低い肥満児だから・・・

その頃のイジメを象徴する言葉があります。

小デブ

しょうでぶ
と読みます。

当時のわたしは、背が低く(140cmほど)、
さらに、太っていました。

いわゆる、肥満児です。

背の低い肥満児が、
女子に話し掛けまくっている・・・

確かに、ウザいですね。

そして、クラスメートがわたしに付けたあだ名が、
小デブ、でした。

しかし、
さすがに、これは堪(こた)えました。

彼等は、ことあるごとに、
場所(教室や廊下など)や、
時間(授業中であるか、休み時間であるか)を問わず、
このフレーズを口ずさみ、
その度に、わたしは胸が締め付けられ、
やり場の無い苦しみを覚えました。

しかも、担任の女性教師は、
完全に、見て見ぬ振りをして、
全く助けてくれませんでした。

そんな状況が一年ほど続いたとき、
イジメは、あっけなく終了しました。

イジメの標的が別の生徒に替わったのです。

彼等は、所詮、徒党を組むことしかできない、
小学校4年生の男の子達です。

誰かが、ある生徒の文句を言い始めると、
あっと言う間に、標的がその生徒に切り替わりました。

ただ、イジメの主犯格は、
わたしのことが相当気に食わなかったらしく、
中学を卒業する頃まで、ことあるごとに、
『あいつとは話すな』
というくだらない指令が同級生間で流れていました。


■■ 中学生時代

■ 快挙と失望

中学生になってからも、
バスケットボールを続けました。

小学校時代に全国3位という実績を残した生徒達が、
全員、同じ中学校へ進学したということで、
中学のバスケットボール部は、にわかに騒然としてたようです。

当時のバスケットボール部は、
新3年生は頑張っていましたが、
新2年生は、小学校時代の先輩一人を除き、
あまり熱心な生徒達ではありませんでした。

しかし、わたし達が入学したことで、
ヤル気のない先輩達は居場所が無くなり、
次々に部を後にしました。

当時は何も感じませんでしたが、
いま思うと、彼らの楽しみを奪ってしまった・・・
という罪悪感を少し覚えます。

当時の先輩達、スミマセンでした。

ところで、小学校時代の全国3位という実績は、
行政を動かしたらしく、
わたし達が2年生になるとき、
バスケットボールで大きな指導実績のある
男性教師が赴任してきました。

そして、わたしたちは、
2年生の頃には、
主力選手としてプレーするようになっていました。

しかも、チームメイトは、
小学6年生の頃から10cm前後も身長が伸び、
183cmが2人、
176cmが2人、
170cmが5~6人(わたしは、ココ。あまり背が伸びなかった・・・)、
という、またまた長身チームになっていました。

しかも、試合があるたびに、
新聞記者さんやテレビカメラに追いかけられ、
県下での注目度合いが高いことは、
チームの誰もが理解していました。

そして、わたしたちは、
毎年、夏休み中に行われる全国大会で、
なんと、またしても、
『3位』になってしまいました。

今度は、スタンメン選手5名のうち、
4名が2年生という
極めて特殊な選手層での快挙でした。

しかし、
わたしたちが3年生になり、
改めて全国大会に出場した際、
なんと、予選リーグで敗退してしまい、
決勝トーナメントへ進むことができませんでした。

この出来事は、
選手だけでなく、指導者達にも重くのしかかりました。

多くの人が、言葉を失い、
期待を裏切った・・・という思いに苦しみました。

夏休みが終わり、
中学校へ登校しても、
全国大会のことについて触れる人は、
ほとんどいませんでした。


■ 和して同ぜず

ところで、
中学校の夏休みが終わると、
中学3年生達は、高校受験モードに突入します
(通常は、しなければなりません)。

わたしも受験モードに入らないといけないのですが、
夏休み中は、全国大会の影響が大きく、
廃人のような気分で過ごし、
なかなかヤル気が出ませんでした。

学校生活では、
クラスメートの意見に同調し、
何とかして嫌われないように振る舞うという、
クダラナイ術を実践するようになっていました。

小学校時代のイジメと、
全国大会での失態の影響が
大きかったのだろうと思います。

ですが、中学3年生の時の担任の先生が、
わたしを救ってくれました。

なんともウダツのあがらないわたしに対し、
こんな言葉をくれたのです。

『和して同ぜず』

周囲と強調するのは大切だけれど、
道理に反することにまで賛同してはいけない、
という意味です。

要するに、
『周りの意見に流されちゃアカンよ』
と言ってくれたのです。

わたしは、この言葉が無ければ、
周囲の人に同調ばかりしているツマラナイ人間
になっていたと思います。

し・か・し・・・
この言葉には、問題もありました。

当時のわたしは、
人生経験の少ない中学生です。

他人から『言葉』を戴くことなど初めてであり、
わたしは、
その言葉を、あまりに極端に解釈してしまったのです。

そして、どうなったかというと、
『他人は、みんな間違っている』
『他人は、みんな信用できない』
『全てのことを、自分ひとりでやらなければならない』
という、極めて偏屈な思想へと堕ちてしまったのです。

この間違った思想は、
中学時代に深く根付いてしまい、
30歳を過ぎた今でも、時々、
わたしの心に悪さをします。

なお、そんな思想を抱くようになったわたしは、
それまでの自分とはガラリと変わり、
勉強マシーンのように勉強しまくって、
富山県で1、2を争うほどの進学校(高岡高校)へと進みました。


■■ 高校時代

■ クダラナイ約束

高校に入ってからは、
バスケットボールとバンド(軽音楽部)活動に明け暮れました。

勉強は、3年生の夏頃まで殆どしませんでした。

勉強をしなかったのには、
一応、理由がありました。

わたしの両親は、
中学生だったわたしに、
耳にタコが出来るほど頻繁に、
『勉強しなさい!』
と言ってきました。

しかし、わたしが、勉強する理由を尋ねても、
両親は全く答えてくれませんでした。

腑に落ちないまま勉強を続けるうち、
わたしは、両親との間で、
『高校に入ったら勉強しない!』
という滅茶苦茶な約束を取り付けました。

そんなクダラナイ理由で、
高校に入ってからは、殆ど勉強をしなかったのです。

そして、髪を茶色に染め、
ボンタン・短ランを着て、
ちょっとツッパっていました。

でも、所詮、進学校のなかでのツッパリです。

周囲の生徒や教師からは、
冷たい目で見られていたと思います。

しかも、バスケ部と軽音楽部の二股状態だったので、
どちらにおいても大した実績を残すことはなく、
本当に中途半端な馬鹿高校生だったと思います。

そんな折、高校3年生の夏休みが終わりました。


■ 猛烈な嫌味

進学校では、夏休みが明けると、
完全に受験モードに入ります。

高岡高校では、
授業中に、別の教科の勉強したり、
放課後に、教室や自習室で勉強したり、
そもそも登校せずに、地域の図書館で勉強するなど、
とにかく、ほとんどの生徒が勉強しまくります。

ところで、わたしは、3年生の夏休みが明けた頃、
学年で下から3番目の成績を取りました。

国語の授業中に、他の生徒の前で、
教師から、『松野は大学へ行かんし、楽やねぇ!!』
と猛烈な嫌味を言われたこともありました。

結果から言うと、
わたしは、現役で、
国立の金沢大学工学部土木建設工学科
に進学しました。

センター試験の模試では、
800点満点のうち、いつも400~500点ほどの
低い成績でした。

しかし、本番のセンター試験では、
800点満点のうち、613点を取り、
金沢大学工学部を受験する学生のなかでも、
上位に食い込んでいました。


■ 他人に引っ張り上げてもらう

わたしは、3年生の夏休みが明けてから、
少しずつ勉強し始めたのですが、
フと思うことがありました。

それは、自分の学業成績は極めて低いが、
周囲の人間(同級生)の成績やポテンシャルが高いので、
自分も釣られて前進している・・・
という感覚でした。

勉強することの意味について
未だ理解できてはいませんでしたが、
周囲の能力が高い場合には、
それに釣られて自分もそれなりに前進できるんだな、
ということを肌身で感じました。

ところで、
わたしは、大学受験の際、
私立大学を一つも受験せず、金沢大学だけを受験しました。

これは、
兄が私立大学を6つ受験し、
多額の受験費用が掛かったにもかかわらず、
結局、公立大学へ進学したという過去を見てきたから、
というのも理由の一つですが、
もう一つ、大きな理由があります。


■ 思考は現実化する

それは、
『金沢大学に進学する』
『それしかない』
と決めていた(信じていた)からです。

ちなみに、決めた(信じた)根拠は、ありませんでした。

とにかく、『金沢大学に行くんだ!』
と強く思っていました。

そして、
その思いは、現実のものとなりました。

のちに、名著『思考は現実化する』を読んだとき、
『をっ!?まさにコレだ!!』
と感じ、大学受験の頃を思い出しました。

強く思えば、その通りの結果が得られる、
ということを始めて感じた瞬間でした。


■■ 大学時代

■ 完全に魅了されました

金沢大学に進学したあと、
わたしは、ますます勉強しなくなりました。

工学部土木建設工学科へ進学したはずなのに、
最初の一年半の間は、
教養科目と呼ばれる義務教育のようなものを
強制的に学ばされたからです。

わたしは、学校で勉強することの意味を
益々理解できなくなっていきました。

そしてフラフラと街に出てみると、
高校時代には見たことのない
華やかなお店がたくさん並んでおり、
18歳の無垢なわたしは完全に魅了されました。

わたしは、高校3年生までの貯金(20万円ほど)を
大学入学後2ヶ月ほどの短期間で、
全て、洋服代に使ってしまいました。

一着1~2万円するような服を、
バンバン買っていたため、
20万円の貯金なんて、
アッという間に無くなりました。

お金の知識が全く備わっていない
というのがよくわかりますね(^_^;)

学業成績の良し悪しだけで人格をも
判断されかねない学習環境に置かれ、
運よく国立大学に進学したとたん、これですもの・・・

このとき、
学校で勉強することには大した意味がない
ということに気付くべきでした。

幸いだったのは、貯金が無くなったとき、
クレジットカードを使ったり、
消費者金融に手を出すなど、
金策に走らなかったことでした。


■ お金が無くなり、●●を踏む

わたしは、お金が無くなったのを機に、
あることを決意しました。

それは・・・

自分で洋服を作ること!?でした。

すぐに実家へ行き、
祖母のミシンを譲ってもらいました。

ミシンを持って金沢に飛んで帰り、
それまでに買った洋服の縫い目をほどき、
洋服のパーツをバラバラにして、
見よう見まねで型紙を作りました。

そして、布と糸を買ってきて、
洋服を作ってみました。

パッと見は、それっぽく作れましたが、
ボタンホールは穴かがりされていないし、
布の切れ端もかがってなかったので、
小学生の家庭科レベルの洋服でした。

わたしは、そういうことを繰り返しながら、
わからないことが多すぎる・・・
と感じ始めました。

そして、電話帳でアパレル系の専門学校を調べ、
大学に通いながら学べるところを探しました。

すると、夜間に開講している専門学校があり、
わたしは、すぐに電話を掛け、入学を決めました。

大学1年の夏頃から4年生の終わり頃まで在籍し、
デザイン、パターニング(製図)、縫製を
一通り学びました。

専門学校で学び始めて一年ほど経ったころ、
服作りのスキルが格段にUPしていました。

わたしは、“You's at Indies”という
インディーズブランドを立ち上げ、
自分で作った服をショップで販売してもらったり、
ファッションショーを開くなど、
活発に活動を始めました。
※You'sはヨウズと読んでいました。

一方、大学では相変わらず勉強をせず、
ただ単位を取りに行くだけ、という感じでした。

大学の同級生達が、
マージャンやコンパしているのを尻目に、
毎日ミシンを踏んでいました。


■ 意気地なし

ところが、大学4年生になった頃、
アパレル業界に異変が置きました。
(というか、わたしが勝手に、そう感じていました。)

当時、コムデギャルソン や
Y's といった日本の老舗ブランドには、
まだ活気がありましたし、
A BATHING APE などのストリートブランドも
勢いを付けてきていました。

しかし、そこに現れたのが、
ご存知、“UNIQLO”でした。

当時のUNIQLOの商品は、
今と比べると種類が少なかったのですが、
十代の若者を中心に、
スウェットが飛ぶように売れていました。

わたしは、専門学校の先生から、
『大学を卒業したあと、
東京の専門学校へ行かないか?』
という誘いを受けましたが、
“UNIQLO”の進撃を目の当たりにし、
アパレル業界に身を置くことを
躊躇してしまいました。

結局、わたしは、進路を決めあぐね、
親のスネをかじり、大学院へ進学してしまいました。

簡単に言うと、怖じ気付いたということです


■ バカ学生、一丁あがり!

ちなみに、わたしは大学院の入試前にも、
殆ど勉強していません。

そんな状態でも大学院に進めたのは、
過去問をちょちょっとやっていれば合格できるという、
何のための試験かわからないような試験だったからです。

真相はよくわかりませんが、
とにかく、そんな感じでした。

実はこの頃には、既に、
『なんで勉強するの?』という疑問すら
持たなくなっていたように思います。

テキトーにやっていれば進学できる・・・という、
学生の思考を停止させる
いわば麻薬のような状況に身を置き続けた結果、
完全なバカ学生が出来上がっていました。


■ 売り手市場

ところで、アパレル業界に対する情熱を
失いかけていたわたしは、
親からの仕送りで遊びまくっていました。

正真正銘のバカ学生だったと思います。

そして、大学院を修了する頃、
とうとう、本格的に進路を決める時期になりました。

当時の金沢大学には、
就職活動を行うシーズンになると、
多くの企業から求人票が大量に送られてきました。

学生の数よりも圧倒的に多い求人票がありましたので、
まだまだ売り手市場という感じでした。

わたしは、大学に届いていた
大量の求人票のなかから、
金沢市内の土木建設系の設計会社を選び、
教授のコネを使い、就職してしまいました。

特に行きたい企業もないし、
公務員になりたいわけでもなかったので、
本当にテキトウに決めました。

24歳になっても、馬鹿のままでした・・・


■■ 1つ目の仕事

■ 無茶苦茶

金沢市の設計会社の仕事は、
多忙を極めました。

毎日、
深夜1時~4時に仕事を終え、
翌朝8時半に出社するという、
無茶苦茶な労働環境でした。

入社から2ヶ月ほど経ったころ、
何故か、朝起きると鼻血が出てきました。

アレは何だったのでしょう・・・

しかも、わたしは猫を飼っていたのですが、
その猫も精神的にオカシくなり、
毎日、ソファやベッドでオシッコをするように
なっていました。
(これは、家のなかで、
ずっと独りぼっちにさせてしまったのが
原因だと思います。)

そして、会社でのそんな過酷な状況に馴染めるはずもなく、
わたしは、この会社を
半年も経たないうちに辞めました。

誰も幸せそうに見えなかったし、
そこで働いていても、
どうやって幸せになれるのか
全く想像できなかったからです。


■ VBA

ただ、不幸中の幸いだったのは、
労働環境は酷かったのですが、
その会社での仕事で
VBAを習得できたことです。

このスキルは、
のちに、少なからず活躍してくれることになります。

ところで、このときのわたしは、
いい加減な考えで会社を選び、
その会社でも全然頑張れなかったので、
このまま、どんどん堕ちていくのかなぁ・・・
と漠然と考えていました。

両親には仕事を辞めたことを
伝えませんでした。


■■ 2つ目の仕事

■ 女社長

会社を辞めると、収入が途絶えました。

わたしは、
どうやって食っていこうか・・・
と、数日の間、悩みました。

そして、大学時代の友人宅へ遊びに行き、
パソコンでファミコンゲームをやっているとき、
フと、
学習塾を始めることに決めました。

当時のわたしは、
学生時代から借りていた部屋に
住み続けていました。

好都合だったのは、その部屋は、
居住用ではなく、
オフィス!?だったのです。

大家さんは、ある会社の女社長で、
わたしの住まいは、
大家さんが会社を立ち上げた場所(オフィス)でした。

広いフロアをリビングにして、
カーペット張りの社長室を寝室にしていました。

そんな縁起の良い場所ならということで、
わたしも、学習塾を始めることにしたのです。

学生時代から、学習塾をやっていたので、
何とかなるだろうな・・・と思っていました。

チラシを自作して、
印刷会社で大量に刷って新聞に折り込んでもらい、
近所に配布しました。

たしか、6万円ほど掛かったと思います。

そして、チラシの効果はすぐに現れました。


■ 将来像

新聞にチラシを入れると、
大した特典を付けたわけでもないのに、
中学生が集まってくれました。

そして、生徒達が友達をじゃんじゃん連れてきて、
あっという間に生徒数が20名を超えました。

そんなこんなで学習塾をやっていたのですが、
将来像が全く見えてきませんでした。

自分で集客し、勉強も教えていたので、
当然かもしれません。

教え方をマニュアル化し、
アルバイトの学生にバトンタッチすべきだった
かもしれません。

わたしは、この頃、
将来に対する漠然とした不安を抱えながら
毎日を過ごしていました。


■■ 3つ目の仕事

■ 単純作業

学習塾の店舗を増やすなど、
学習塾を大きくすることに対して
あまり興味を持てなかったわたしは、
何か別のことをやりたいと思い始めました。

学習塾は夜間に開いていましたので、
昼間の時間は、比較的自由に使えたからです。

そのとき考えたのは、VBAを使えるところ・・・

そして、求人誌を幾つか見て、
フリーペーパーを発行していた地元の会社に
アルバイトに行くことにしました。

仕事の内容は、
フリーペーパーのウェブ版を作成するにあたり、
手書きの書籍情報や映画情報を
手作業でCSV化するという、
単調な、単調な、単調な、単純作業でした。

いわゆる、データ入力っていうやつです。

数名のアルバイトが、
手書きの紙を見ながら、
パソコンでカチャカチャと入力するわけです。

面倒臭いなと思いながら、
テキトーにデータ入力していると、
入力するセルを間違えるなどの入力ミスが起きました。

わたしだけでなく、パートの女性陣の
同様のミスをしていました。

そこで、データ入力フォームを表示させ、
OKを押すと、セルに入力される、
データ入力支援ツールを作りました。

エクセルでの入力作業では、
基本的には、各セルが小さくて見づらいので、
作業性が悪いのだと思います。

自作したツールでは、
入力フォームに大きなテキストボックスを設けたので、
作業性がUPし、ミスが減りました。

ただ、VBAを扱う作業自体は楽しかったのですが、
そこで働いている入社1~2年目の
若い社員のヤル気の無さを見て愕然とし、
アホらしくなって、半年で辞めてしまいました。

言ってみれば、わたしに似た奴等が
テキトーに仕事をしていたわけです。

わたしも、最初の会社ではそういうふうに
見られていたのだと思うのですが、
他人の姿を見ると、
かつての自分の馬鹿さ加減が手に取るように分かってしまいます(^_^;)


■■ 4つ目の仕事

■ 奥さんっ!

3つ目の会社のアルバイトを辞めようかな・・・
と考えていたとき、
お昼休みにネットサーフィンをしていると、
地元の面白そうな会社を見つけました。

『環境保護』という大義名分を掲げ、
『バッテリーの再生』を行っている会社でした。

このときは、この会社が、
数年後の上京のキッカケになるとは、
微塵も思っていませんでした。

わたしは、お昼休みにバッテリー再生会社の連絡先をメモし、
帰宅後に、早速、電話を掛けてみました。

電話に出たのは、社長でした。

その週末に会うことになり、
なんだか、話しがスムーズ過ぎるので、
変な感じでした。

週末、ボロいホテルのロビーで待ち合わせ、
社長と会いました。

変だったのは、なぜか、社長のとなりに、
社長の奥さんが座っていたことでした。

社長の奥さんは、韓国人でした。

このとき、この状況が変だということに
気付くべきでした。

奥さんは、株主ではありましたが、
経営者ではないし、社員でもないので、
そこにいなくてよいんですよね。

でも、何故か、社長を押し退けて、
しゃべりまくりでした。

どこそこの会社に騙されて大変・・・
あいつ等は本当に滅茶苦茶だ・・・
などなど、愚痴をぶちまけまくり、
何だか不穏な空気が流れていました。


■ 手取り15万円也

そんなこんなで、
何だか変な会社だな・・・と思いつつも、
実は、この会社に入社してしまいます。

このとき、26歳でした。

大学院を出て、26歳で、給料が手取りで15万円・・・
信じられない金額です。

でも、この会社での仕事は、
すごく、楽しかったです。


■ 濃硫酸

社員はわたしひとりで、
いつも、社長と二人で、
工場に篭っていました。

事業内容は、
バッテリーの再生でした。

具体的には、
充放電の繰り返しによって電極が劣化し、
充電できなくなった自動車や非常用電源設備の
バッテリー(鉛蓄電池)に特殊な処理を施し、
充電できるように直す、
というものでした。

この会社で、『濃硫酸』も経験しました。

濃硫酸って、スゴいですよ。

濃硫酸が衣類に付くと、
衣類は、即座に煙を上げて、
一瞬で溶けます。
というか、燃えてんのかな?

それくらい、恐ろしい液体です。


■ 真似すんな!

ところで、この会社の社長は、
優秀な技術者でしたが、
経営に関しては脇が甘いところがありました。

実は、
社長自身が開発した、
会社の宝とも言えるバッテリー再生装置を、
運転資金を調達するために、
販売したことがありました。

わたしが入社する前の出来事でした。

その相手は、
バッテリー再生装置を分解して解析し、
見事なコピー品を作り上げました。

そして、とうとう、
バッテリー再生事業を始めてしまいました。

何の契約も結ばないまま、
装置を販売してしまったので、
相手のした行為は、別に悪くありません。

でも、
社長は、何ら権原を持っていないのに、
相手に対し、内容証明郵便を送り付け、
『コピー品の製造とバッテリー再生事業を止めなければ、訴える!』
という、営業妨害とも言えそうな主張を繰り返しました。

そして、双方に弁護士を付けて話し合うことになり、
『コピー品を莫大な金額で買い取る』ことで、
相手の行為を抑えるという結末を迎えました。

特許を先に出していれば、
こんなことにはならなかった・・・
そう強く感じさせられた出来事でした。


■ 親友しゃの君

そういえば、この会社には、
大学時代からの大親友である、しゃの君(仮称)が、
一緒に働いていました。

しゃの君は、もともと、
世界的な大企業のアメリカ支店に勤務し、
将来を嘱望されていました。

しかも、彼は、英語はペラペラ、
頭脳明晰で、問題意識が高く、
大企業へ入るお手本のような人間でした。

わたしは、
そんな彼に夜な夜な国際電話をかけ続け、
石川県にある硫酸まみれの会社へ引きずり込みました。

彼は、自らの希望もあって、
経理部門を担当することになりました。

が!?
問題は、すぐに起きてしまいました。

この会社は、法人とはいえ、
わたしが入社する前は、社長一人が実働部隊で、
社長の奥さんが経理を担当していました。

そんなわけで、会社の領収証と個人の領収証が、
ごっちゃになっていたのです。

例えば、ルイ・ヴィトンのバッグの領収証が、
帳簿を付けるための資料として控えてあったりしました。

まぁ、事業を行っていれば、
私物購入時の領収証を間違えて保管してしまうことはあり得ます。

そんな領収証は経理の作業中に弾けば済むのですが、
問題意識の強いしゃの君は、
そういうルーズな感覚に敏感に反応しました。


■ ふぢゃけるなっ!

そして、彼は、
社長の奥さんと一緒に会計事務所へ出掛けた際に、
その問題点を指摘してしまったのです。

入社してまだ一ヶ月程のことだったと思います。

その日の夜7時頃、
いつものように工場で作業をしていたわたしの携帯電話に、
しゃの君から着信がありました。

電話に出た途端、事の異様さに気付きました。

電話の向こう側で、
社長の奥さんが暴れまくっているのです。

もう、何を言っているのかサッパリわからないほど、
猛烈な怒り口調で怒鳴り散らしています。

しかも、税理士事務所のなかで、です。

何だかわからない言語で暴れ散らすなか、
一言だけ、『ふぢゃけるなっ!』という言葉だけが、
何とか聞き取れました。

なお、『ふぢゃけるな』という表現は、
決してウケを狙って書いているのではなく、
社長の奥さんは韓国人なので、
こんな感じで、語尾が若干オカシいことがあったのです。

そうそう、
しゃの君を修羅場に残したままでした。
彼の話しに戻します。

しゃの君は、その電話口で、
『大変なことになった!起爆スイッチを押してしまった。
頼む!すぐに迎えに来てくれ!!助けてくれーー!!!』
と言い残し、電話を切ってしまいました。

わたしは、すぐに工場を飛び出し、
税理士事務所へ、しゃの君を迎えに行きました。

しゃの君は、税理士事務所の前で呆然と立ち尽くし、
今にも泣きそうな雰囲気でした。

何があったのか聞こうと思ったのですが、
とりあえず、そのまま晩飯を食べに行くことにしました。


■ 金を持っている人間が強い

しゃの君とわたしは、
はなまるうどんを食べに行きました。

車のなかだったか、
お店に入ってからだったか、
正確なことは覚えていないのですが、
しゃの君が、
『完全に地雷を踏んだ・・・』
と言っていたことを覚えています。

そして、間違いを指摘したのは正しいかもしれないけれど、
社長の奥さんに直接指摘したのは間違いだった・・・と、
深く反省していたようでした。

指摘した内容がどうであれ、
やはり、金を持っている人間が強いし、偉いのだ。

少なからず、給料を貰っている身である以上、
言ってはいけないこともある。

ただ、時既に遅し、だった。

二人でうどんをすすっていると、
社長の自宅から電話が掛かってきた。

電話の向こう側では、
奥さんが暴れている。

どうやら、奥さんは、社長宅に帰宅したようだ。

あんな状態で、よく、自動車を運転できたものだ。

ところが、突然の社長の一言で、
一瞬、空気が凍りついた。

『すまん。二人とも、もう、来なくていい。』

電話の向こう側では、
社長の奥さんが、
『わたしと彼らのどっちを取るのッ?ハッキリしなちゃいよ!』
と怒鳴っているのが聞こえてきました。

しゃの君とわたしは、一瞬、ハッとしたものの、
二人いっしょに辞めるならイっか!
という感じで、開き直っていました。

二人とも、うどんを残さず食べて帰宅しました。


■ 思い出

翌朝、いつものように目が覚めました。
だけど、もう出勤の必要はありません。

ただ、会社に私物を置きっ放しにしていたので、
しゃの君と一緒に荷物を取りに会社へ行きました。

会社に着くと、社長が出てきて、一言だけ言いました。

『スマン・・・』

本当に、その一言でした。

手取り15万円ほどの薄給で、
一本20kgほどあるバッテリーを抱え、
硫酸まみれになりながら駆け抜けた2年の歳月の思い出が、
一瞬のうちに、走馬灯のように脳裏を駆け巡り、
涙が溢れてきました。

入社間もないしゃの君は、
そんなわたしを気遣ってくれ、
社長に対し、
『俺はともかくとして、まっちゃんに酷い扱いをしたら許さんぞ!』
とまで言ってくれました。


■ 結局、カネがすべてなのか!?

ところで、
この出来事の原因は何だったのでしょうか?

しゃの君が、社長の奥さんの逆鱗に触れたことでしょうか?

いいえ。
そんな単純なことではありません。

まず一つ言えることは、
会社にお金が無かったことです。

自分の胸に手を当てて思い返せば、
誰しも思うところがあるはずです。

経済的に余裕があれば、
精神的にも余裕が生まれるのです。

そして、経済的に苦しいときは、
精神的にも追い込まれてしまうのです。

これは、法人であっても同じです。

しゃの君が社長の奥さんと会計事務所へ行ったとき、
会社が経済的に安定しており、皆に精神的な余裕があれば、
領収証云々の問題なんて、笑って済んでいたはずです。

では、結局、カネがすべて・・・
ということなのでしょうか?


■ 忌まわしき●●●

あの問題は、お金が無かったから起きた・・・
という結論で良いのでしょうか?

いいえ、問題は、もっと別のところにあります。

そもそも、この会社は、
どうして経済的に苦しかったのでしょうか?

わたしは、土日・祝日に関係なく、
朝から夜中まで作業をしなければならないほど、
仕事に追われていました。

しかも、大きな工場などにある非常用電源設備の
エンジン起動用バッテリーを再生する場合、
一件の仕事で●百万円~●千万円!?という大金が動きます。
したがって、売上はしっかりと立っていたはずです。

でも、お金の問題に悩まされていました。

売上はあるのに、お金が無い・・・

どういうことでしょうか?

それは、
そう、
あの忌まわしき特許の問題を
解決しなければならなかったからです。

実は、この特許の問題に対処するために、
考えられないほどの大金が必要になっていました。

明確な金額を書き記すのは控えますが、
非常用電源設備のバッテリーを何回再生すればイイの?
っていうくらい、とにかく大きな金額が必要でした。

そりゃそうです。

相手方だって、
やれば儲かると分かったうえで、
道義に反してまで装置をコピーしているのですから、
相当な覚悟をしているはずです。

そう簡単に事が収まるはずはありません。


■ スマン

この会社は、
特許の取得費用を捻出できなかったという理由で、
自社の生命線ともいえるバッテリー再生装置を、
丸裸のまま、売り飛ばしてしまいました。

その結果、
コピー品が出回ってしまい、
事態収拾のために大金が必要になり、
会社の経済状況が悪化してしまいました。

やがて、社内の人間も精神的に弱くなり、
たった領収証一枚に関する話しが、
何故か、社員が二人もクビになるという
大ごとになってしまいました。

会社の外でトラブルが起き、
会社の中でもトラブルが起き、
もう、会社の機能は停止寸前だったと思います。

社長がわたしに言った“スマン”という言葉は、
これら一連の流れを全部ひっくるめた、
詫びの言葉だったのだろうと思います。


■■ 使命

■ マンガ喫茶

会社をクビにされたわたしは、
しゃの君と一緒に、
マンガ喫茶へ入り浸るようになりました。

ネットサーフィンをしながら、
自分で事業でもやろうなぁ・・・とか、
何か良い仕事はないかなぁ・・・などと、
呆然と、その後のことを空想していました。

でも、
あることが、
ずっと頭から離れませんでした。

それは、
たった一つの特許が原因で、
会社の財務状況が危うくなり、
敵(コピー品を作る会社)を作り、
取引先にも迷惑を掛け、
社員をクビにしなければならないなんて、
あまりに酷くはないだろうか?
という、半ば怒りにも似た感情でした。

あなたは、
こういうストーリーを経験したいだろうか?

答えはNOだと思います。

選択の余地があるならば、
わたしもNOと言いたかったです。

そんな感情と向かっているうちに、
フと、
頭のなかに、一本の光が見えた気がしました。

それは、見えるというよりは、
感じる言ったほうが正しかったかもしれません。


■ 使命と決断

『特許で会社を救う!』

感じたことを言葉にすると、
こういう表現が当て嵌まりました。

わたしが見聞きしたことを、
怒りに任せて愚痴のネタにするなど、
経験を無駄にするようなことをしてはいけない。

たった一つの特許で救える会社や人がいるのであれば、
わたしの知り得たことを伝えるなどして、
全力で救わなければならない。

この日、
『特許で会社を救う』ということが、
わたしの使命になりました。

そして、ある一つの決断をしました。


■ サムライ


『弁理士になる』


わたしは、自らの経験を踏まえつつ、
特許や商標などの知的財産を扱う法律専門家“弁理士”になり、
会社を救うことを決断しました。

ただ、この時点で、わたしは、
弁理士が合格率6%前後の超難関国家資格であることや、
その後、過酷な受験生活が待ち受けていることを
全く理解していませんでした。

いま思うと、
こうしたことを全く理解してなかったからこそ、
簡単に決断することができたのかもしれません。

だって、冷静に考えると、
合格率6%とは、つまり、不合格率94%なのです。

要するに、合格できない試験ということです。

数字を先に見てしまうと、
通常の感覚を持っていれば、チャレンジしませんよね。

こんな過酷な資格なのに、
リサーチを全く行わず、
チャレンジすると決めてしまったのです。

ただ、仕事も収入もありませんでしたので、
決めてしまった以上、
もう後には引けませんでした。

なお、弁理士とは、
特許権や商標権の取得手続きを代理する国家資格であり、
その文字(弁理士)は、
ことわり(理)を雄弁に語(弁)るサムライ(士)と書きます。

言葉の響きも悪くありませんでした。


■■ 5つ目の仕事

■ 上手い話し

わたしは、弁理士を目指すことと、
生きていくことを
同時に考える必要がありました。

そこで、東京の特許事務所に入り、
実務経験を積みながら、
弁理士試験にチャレンジすることを思いつきました。

給料を貰い、
実務経験を積むことができ、
弁理士資格を取れるかもしれない!

これ以上の上手い話しがあるか?
と、当初は思っていました。


■ 上京決定か!?

ところで、わたしは、
都内にある小さな特許事務所の弁理士宛に、
一通の電子メールを送っていました。

自分が経験したことや、
『特許で会社を救う』という想いなど、
初めてのメールにしては、随分熱く語ったと思います。

そして、
メールを送ってから2~3日経った頃、
弁理士から返信がありました。

『面接してあげるから、会いに来てください。』
という趣旨のメールだっと記憶しています。

なお、このメールをどう解釈したのか、
わたしは、何故か、
『上京が決まった!』と思い込んでいました。

わたしは、すぐに電車の切符を手配していました。


■ 面接

わたしは、すぐに東京の弁理士に会いに行きました。

その事務所は、
秋葉原駅から徒歩10分ほどにある
雑居ビルの2階にありました。

小さな事務所には、
6名ほどのスタッフが働いていました。

わたしは、指定された時刻より少し前に事務所を訪ね、
会議テーブルの前に座り、
弁理士との対面を待ちました。

約束の時刻になり、
弁理士がニコニコしながら現れました。

挨拶もそこそこに済ませ、
会議テーブルを挟んで対面しました。

弁理士は、
わたしが経験したことに興味を持っているようでした。

話しはトントン拍子で進み、
面接の終盤で、
『そういう熱い想いがあるなら、
弁理士を目指して、うちで頑張れば良いよ。』
という言葉をいただきました。

就職決定の瞬間でした。

そして、わたしは、
その日のうちに、
錦糸町でアパートを借りてしまいました。


■ トラック

わたしは、一旦金沢市へ戻り、
借りていた部屋を急いで解約し、
荷物をまとめました。

そうそう、わたしが上京するタイミングで、
しゃの君も上京することになっていました。

彼は、今や知らない人はいない超有名起業である、
密林日本(仮称)へ就職を決めていました。

実は、この時点で既に、
彼とわたしの年収には、
二倍の差が出ていたのでした・・・

もちろん、彼のほうが、
多くもらうわけです。

この期に及んでも、
冷静に自分の行く先を考えているしゃの君は、
やっぱり凄いです。

さて、同時期に上京を決めたしゃの君とわたしは、
引越しをするにあたり、
トラックを借りて、
自分たちで荷物を運ぶことにしました。

男二人で荷物を運び出せば、
引越し屋さんに頼まなくても、
何とかなりました。

東京へ向かうトラックのなかで、
わたし達は、
東京での明るい未来を想像し、
胸を高鳴らせていました。

もう過去のことを引きずってはいませんでした。





つづく・・・